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    将棋コラム 投了時の「負けました」を再考する

    2016.09.13 Tuesday

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    本能寺の変で、明智光秀に裏切られた織田信長は自害する際に「是非もなし」との言葉を残したとされています。これは善悪を判断することもなく致し方ない、やむをえないことだ、という意味でのことでしょう。

     

    将棋というものは挨拶に始まり挨拶に終わります。対局が始まるときには「お願いします」と挨拶をしますし、対局が終わるときには投了する者が「負けました」と敗北の意思を示します。このように将棋を対局するにあたって挨拶をすることは将棋の基本的なマナーであり、作法であるわけです。

     

    将棋は礼儀正しく指すことが重要であるとされ、敗者が投了の意思を示す「負けました」は将棋の礼儀作法として事あるごとに推奨されます。すなわち、この「負けました」は投了における美学でもあり、投了の際にはきちんとこの「負けました」を言えることが立派な将棋指しであることの証左なのです。将棋においては自分の敗北を認め、自分でそのことを発することが立派な精神性であると考えられているのだということが分かります。

     

    ところで、このことについて少し考えてみますと何故に敗北の際に自分で敗北したことを認める必要があるのでしょうか。確かに負けたときは悔しいものですから「負けました」などとは言いたくはないという人もいるのでしょう。投了の美学として、この「負けました」を言うことが強要されていることに疑問を持つこともありえるでしょう。はたして「負けました」が言えることが本当に立派なことなのでしょうか。

     

    例えば、スポーツの世界を見てみるとしましょう。サッカーや野球、バスケにテニス等々どのスポーツにおいてもプレーヤー自身が「負けました」と敗北を認めることでゲームが終わることはまずありません。プレイヤーが何を思おうが、何を言おうが、得点と既定の時間等々により無慈悲に勝負が決まります。スポーツの世界においては投了の美学は存在しません。将棋とスポーツはその構造も違いますが、何故に将棋においては自ら「負けました」と敗北を認めねばならないのでしょうか。

     

    このことを外部性、もっと分かりやすく言えばゲームを取り巻く環境から考えてみると、スポーツの場合は審判が居て審判が規定に基づき勝敗をジャッジします。将棋の場合は立会人がつくことはありますが、対局者の意思において勝敗が委ねられています。つまり将棋というゲームはセルフジャッジのゲームなのです。このセルフジャッジという外部要素が将棋における投了の美学たる「負けました」を言うことを生み出した一つの要因と言えるのではないでしょうか。

     

    さて、このようなセルフジャッジの必要性から投了の合図が必要だとして、投了する際に「負けました」といちいち発する必要はあるのでしょうか。それでは逆にセルフジャッジとして、勝ちが確定したような場合に、片方が「勝ちました」と言い、相手もそれを同意することで勝負が決まるとしてはどうでしょうか。ここでまず問題になるのは、判断が不透明であることです。いくら片方が「勝ちました」をと勝利宣言を連発しても相手が延々と認めなければ勝負は終わりません。すなわち、どちらかがもうこれで終わりだと諦めることで勝負が終わるとしたほうが明快なのです。ゆえに投了の際には「負けました」で終わることが必要になるのでしょう。また、勝者が勝ちを誇ることは美徳であるのかという問題もあります。勝った者は謙虚であるべきだという考えも根強いでしょう。

     

    そうは言っても何故に敗北の際にわざわざ「負けました」を発するのかはまだ見えてきません。「負けました」と自信の敗北を認めることは礼儀だとか美徳であるとか何か価値があると考えらるのでしょうか。潔く負けを認めることは確かに見てるものからすれば心地は良いですしその精神性は何か立派なことであるかのような気もします。しかし冷静に考えてみると敗者が敗戦の弁をそのまま直接吐露することは屈辱に他なりません。状況的に負けであることは明らかであるとか、もう自身に指し続ける気力が出ない局面だとして「負けました」を強要することが美であるのでしょうか。明らかに非勢であるのに敗北を頑なに認めない根性的な精神性は美しいとは言えませんが、一方では「負けました」の強要は敗者に鞭を打つ非道な行為へと陥っているとも考えられます。

     

    少し見方を変えてみると、日本古来の武士の世界には切腹、腹切りというものがあります。これは不始末の責任を自身で判断して自身で処置を示すことでその社会的体裁を保つという意味合いの習俗です。この切腹というものは形式的行為です。自らの責任をその行為に変えて示すもので敗戦の弁を述べる類のものではありません。ここに見られる潔さ、その潔さがある種の美徳にまで思えるのは一切の言い訳もせず何も語らずに自分の不始末を処置することにあります。なお、腹切りをした者はそれでは死にきれないので第三者の介錯が必要になります。このことはより一層それが形式的なものであることを示唆しているでしょう。

     

    こうした武士の精神から考えてみると、一見すると潔く自身で不始末を処置したかのような「負けました」の精神は、日本人特有の美徳であるかのようにも見えます。しかし自ら敗北を吐露する「負けました」の精神は、実はそうした潔さとは異なる直接的な言い訳であるかのようにも思えます。それは自らの心情を吐露することで赦しを請うかような自己都合の精神性であり、ただ単に敗者として全てを放棄するような精神性でもあります。そこに敗者としての美学などは存在しません。いくら心情を吐露したからと言ってそれが尊ばれることはないのです。敗者は何も語るべきではないし沈黙こそが敗者のあるべき姿に見えます。敗北においては沈黙を守り、その意思を示す形式的な行為の存在と、第三者的な判断こそが、敗北における、投了における美学だとは考えられないでしょうか。状況的にみても形式的な敗北のサインを決めて、暗黙の了解により勝敗が決まるとしたほうが美しいですしそれで礼節を欠くこともありません。将棋では駒台に手を触れることで投了の意思とすることがありますが、このように「負けました」を言わずに勝負を終わらせる方法もあるのです。

     

    ここまで「負けました」を発する意味について考えてみましたが、必ずしも「負けました」と愚直になることが美しいことではないことが分かりました。引き分けは指し直すとすれば、将棋を指せば必ず勝つか負けるかしかありえません。つまり負けるということは殆ど不可避であるのです。

     

    ここで冒頭の発言に戻るとそのことはまさしく「是非もなし」なのではないでしょうか。

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